『そして、バトンは渡された』

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まずは、とても温かい話だと思った。たぶん、幼いころ死んでしまった母親と父親、いわゆる「普通の家庭」で育った間もたくさんの愛情を受けて育ったのだろう。もちろん、その後の養父母たちの愛情は言うまでもない。梨花さんの奔放ながらもいつも優子を思っている行動、泉ヶ原さんの難しい時期を見守る態度、森宮さんの安定している日常。どれも、少々ぎこちない部分はありつつも、優子が愛情を感じ取るには十分な日々だったのだろうな、と思った。

 

私も良い話だとは思うのだけど、たくさんの書評で見たように泣ける作品!とかは思えなかった。優子は、どうしてこんなに愛されて育ったの?血のつながりがないから、かえってお互い気を使いあっていたのだろうか。養父母たちは親として、優子は子としての役割を頑張って演じていたのだろうか。けれど、私にはそう見えなかった。養父母たちは無理して親をやっているようには見えず、親という役割を誇らしく大切にしているように見えた。優子も、無理して家族になろうとはしなくて、生活している中で、相手から大切にされて、そして自分もしているうちにだんだんと家族になっていく、という感じだった。現実ではありえない人々ばっかり出てくるのに本の中の生活は日常そのままで、なんか不思議な気分になってしまい、入り込めなかった気がする。虐待が頻発している現実との違和感というか、なんというか。人って、こんなに愛情深くて優しい生き物なの?中学受験で出題されそう、とか思ってしまった。

 

本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へバトンを渡す時だ。 by森宮さん

この本の中において、バトン=優子、走者=(養)父母たち、と言える。バトンは、現在の走者との生活にコミットする。バトンが、過去の走者たちを思い返すことはあまりない。せいぜい、バトンタッチを控えたときくらいだ。けれど、過去を含めた走者たちは、常にバトンの未来を描いて、その幸せを祈っている。私は最初、この言葉の言いたいことがよく分からなかった。幸せを共有しているときより、それを手放すときの方が幸せとは?と。けれど分かった、この言葉の意味とは、本当に幸せなのはバトンを握って走っている間ではなく、自分の手からは離れるけれど未来へ向かってバトンタッチをする時だ、ということだと。バトンが幸せを思い描いてバトンタッチを受け入れることができる(もしくはバトンタッチを自ら望む)、というのは、それまでの走者たちが全力で走った証左なのだろう。確かに、その姿を見届けることは幸福なのかもしれない。

 

私には人生経験が不足しているようで、共感できない部分もあった。例えば、親になると未来が二倍以上になる、という話。梨花さんも森宮さんも肯定的に受け止めているけど、私だったら恐ろしくて仕方がない。もしかしたら私はこの本の字面を追っていただけだったのではないか、とも思ったので、もっと経験を積んでから読み直してみたい。きっと受ける印象も違う気がする。