seikimatsu-boo’s blog

メンタルやられ気味の大学生の記録。画像はほぼいらすとや

メンタル不調に陥った私が、突然学校に行けなくなるまでの話

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私は、中学3年生の冬、突然学校に行けなくなった。

それまでは義務教育の9年間、ほぼ皆勤だったような私が、だ。 *1

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文部科学省の『不登校の現状に関する認識』より引用

 

 家庭環境

小学校、何なら幼稚園の時から、学校を休むなんて行為は私の中に存在しなかった。出席停止になる病気にかかった場合のみ、欠席が許された(まあ、丈夫な体を持つ私は、数年間に1度インフルエンザにかかるくらいだ)「今日は○○が腹痛(風邪、頭痛など)で休み」と先生から聞くと、「親が甘い家庭だな、いいなあ」と思うくらいだった。さらに、不登校の「学校に行けない」というのが心の底から分からなかった。我が家だったら絶対許されないだろうし、そもそも学校自体も大好きだったから、うらやましく思う事すらなかった。私は、長期休みが大嫌いで、早く学校が始まるのを願うタイプの子どもだった。小学生の頃は、長期休みになると機嫌が悪くなる(当時専業主婦だった)母と過ごすのが嫌で食も細くなって、そんな私を見てさらに母も機嫌を悪くする、といった悪循環になっていたくらいだ。

 当時の学校生活の様子

合唱部では、定期演奏会の練習に励んでいた時期だった。中学で部活を辞めると決心していた私にとって、最後の定期演奏会になるはずだった。私は、コンクールシーズンより定期演奏会シーズンの方が好きで、部活もその期間の方が楽しかった。しかもあの頃は、部活の子たちとの仲も深まっていたころで、定期演奏会が終わったら同じパートの仲間と遊びに行く計画も立てていた。クラスでは、卒業を祝う会を控えていた。そのような食事を伴う会は苦手な私だが、会場が校内だったこと、会食への苦手意識も軽くなっていたことも相まって、本当に楽しみにしていた。そもそもほとんどの子が内部進学で、お別れなんてムードはない。もちろん私も内部進学組で、中学3年間の中で一番楽しく過ごせた自分のクラスが好きだった。勉強の方も特別心配するようなことは無かった。とても苦手になっていた数学も、中3でよい先生に持ってもらったことでそれなりになっていたし、そもそもレベルが高くない学校だったので、学年で1番上のクラスに入るか2番目になるか、せいぜいそんな心配しかなかった。

 

以上ふたつを見て、親が甘いから気軽に学校を休めたわけでも、学校生活の躓きが原因でもないのが分かると思う。この突然の出来事から6年経過した今でも、理由は分からずしまいなのだ。

 

学校に通えなくなるまで

Xデーの3週間前

中学に上がって外食が苦手な感覚が薄くなり、外食にチャレンジしたい気持ちが出てきたので、家族で回転寿司に行くことになった。インフルエンザから元気になったばかりで、結構楽しみにしていた。そのため、向かう電車内では熱心にメニューを調べたりしていた。楽しい気分の中、店に着いて、注文した焼きトロサーモンを口に入れたとき、急激な吐き気に襲われた。気持ち悪くてしょうがないし、その場にいられなくなるような感じ。幼少期からたびたび経験していた、外でご飯食べられない病の発作だった。急いでトイレの中に駆け込んだ。ただ、しばらく吐き気は収まらない。何度もえづくけど、吐くことは無い。吐くことが無い、っていうのは救いでもあるけど、一方ですっきりすることもないので、とても苦しいものだ。その後は、雰囲気が良くない中帰ることになった。小さいころから度々こうなっていたので、その度に家族の雰囲気を壊すのが申し訳なかったし、怖かった。自分で制御できるものでもないのに、その後しばらくは家族がお葬式みたいな雰囲気に包まれてしまう。

 

次の日から、私は食事が全くとれなくなった。それまでは、当時打っていた成長ホルモンの影響もあり、食欲旺盛だった。なのに、全く食べられなくなった。口に入れられるのは、口を潤す程度の水分だけだった。無理に食べると吐き出してしまう、そんな状態の日々だった。

 

Xデーの2週間前

食にまつわる物事を聞くと吐き気を催すようになった。例えば、生物の授業内で出てくる、食物連鎖の食う、食われる、というワード。これらを耳にすると気持ち悪くて仕方なくなるようになった。授業中が地獄と化した。「先生、お手洗いに行かせてください」という言葉を発したらその刺激でえづいてしまいそうだった。また、バレンタインの時期の教室に漂う甘い匂い。これも本当に辛かった。目の前でやり取りされる甘いお菓子、一週間前なら喜んで受け取って食べていたものは、今は吐き気を引き起こす敵に見えた。“不登校は甘え。そして、学校にすら通えず不登校になるような人間は今後厳しい社会で生きていけない”といった価値観の中で生きていたから、登校は頑張って続けた。

 

その後何日か食べられない日が続いたことで、体調は悪くなっていった。そんなある日、部活のコンクールの応援に向かった。食べられなくなっていたので、静かなホールに私のお腹の音が響き渡っていた。周りにからかわれながら、合唱を私のお腹の音が邪魔しないように何とか長い時間コンクールを聞いた後、帰り道についた。そうしたら、また回転寿司の時のようなそわそわした感じに襲われた。この時は、なんも口にしていなかったのに。地下鉄の一駅、わずか一分電車に乗るのがこんなに辛いなんてその時初めて知った。一駅ごとにトイレに駆け込んだ。トイレが混んでいると心臓が縮む思いをした。吐き気がすごい、口で荒い呼吸を繰り返していたので口が乾いて気持ち悪い。ただ、その時すでに、水さえ飲めなかった。そんなことを繰り返しながら、何とかターミナル駅に着いた。メールでこの状況を知った家族が迎えに来てくれるというので、私は医務室で待機することになった。駅構内を移動する間も、辛くて仕方がなかった。飲食店と分かる看板を目にするだけで、吐き気が膨らむ。そもそも、ふらついていてこのまま正気を失ってしまいそうな恐怖があった。やっとのことで、医務室に行き、ベッドに寝かせてもらい親の迎えを待った。迎えに来た親にそのまま病院に連れていかれた。簡単な検査の結果、気休めの点滴をしてもらった。その直後から、ほんのちょっとだけ、最初は味噌汁から食事をとれるようになった。

 

そして、2015年2月某日

突然学校に行けなくなった。今まで理解できなかったのに、本当に行けなくなった。不思議だった。だって私は、点滴を打たれているベッドの上でも、近く控えていた調理実習をどうやり過ごそうか、と思考を巡らせていたのだ。言語化するのは難しいのだけど、「(自分の意思で)行かない、ではなく、(何かが学校に行きたがる私を引き留めているから)行けない」なのだ。身体が硬直してしまい、ベッドから起き上がることがどうしてもできない、そんな感じだった。起き上がろう、起き上がらなくては、と思うのに、身体が言うことを聞かなかった。

 

こうして、私は学校を欠席するようになった。もちろん、楽しみにしていた定期演奏会も卒業を祝う会にも出られなかった。しばらくして、春休みの期間に入った。高校にも通えない可能性を考えて、通信制高校を一生懸命探した。高卒認定試験のこともかなり調べた。当時から学歴重視だったので、大学に行かない選択肢は存在しなかった。どんな道を通っても、高偏差値の大学に行かなければならなかった。並行して、外に出る練習を繰り返した。自然が多いところだと少しは気持ちが楽だったので、そういう場所で過ごすようにした。正直なことを言うと、この辺りの記憶はあいまいなので、もしかしたら間違っているかもしれない。

 

もちろん、すんなり学校欠席が許されたわけではない。布団をはぎ取られ、ベッドから落とされて。実力行使での登校は、中学が遠距離だった私の場合は無理だった。両親とは何度も何度もぶつかって(今もぶつかり続けている)、未だに話が通じてないと感じる部分はなくはないが、あの頃よりは私の精神的な不調というものを理解してくれるようになった。

 

2015年4月某日

不登校になるまで、真面目に中学生をしていたのが幸いし、無事に内部進学が認められた。そうして、高校の入学式を迎えた。高校の入学式に出られたこと自体に、私は心からほっとしたことを覚えている。“たまたま、学校に行けなくなってしまった。きっと、高校では大丈夫。ちゃんと通って高偏差値の大学にも進学できる”、そう思っていた。実際はそんな簡単なものでは無かった。その続きの話は、またの機会に書こうと思う。

*1:私の場合、不登校になった時期が春休みの直前期であり、また私学のスケジュールの都合もあり、文部科学省定義の不登校には当てはまりません。しかし、もし時期がズレていたら、明らかに不登校としてカウントされていたと思います。